ウッドハウスの世界 森村たまき (22)

ウッドハウスの世界 森村たまき (22)

こんにちは、イギリス生まれのユーモア作家、P・G・ウッドハウスの翻訳をしております、森村たまきです。この連載も来月が最終回となりました。終わりも近づいてきたところですし、いささか私事になりますが、わたしとウッドハウスとの出逢いについてお話しいたしましょうか。

 この三月二四日に三十二年目の結婚記念日を迎えたわたしと夫ですが、長年在職した一橋大学を退官した夫、森村進は、この春研究室を引き払い、だいぶ片付けも進んできたところです。夫の専門は法哲学ですが、大変な読書家で物知りで海外ミステリや幻想文学、能狂言などにもとても詳しいのです。

 三二年前に大学院生だったわたしは研究会で出会った夫とついうっかり結婚してしまい、新婚旅行から帰ってきて新生活を始めたところで怒涛のマリッジブルーに襲われ、朝な昼なに涙、涙の日々を過ごしていたのでした。そこで物知りで読書家の夫に「心の明るくなる読み物はないか」と、訊ねたのです。

 その時夫が出してきてくれたのが集英社『世界文学全集(三七)現代ユーモア文学集』と、白水社の『笑いの遊歩道:イギリス・ユーモア傑作選』(一九九〇)で、「ここに入っているウッドハウスが面白いよ」と、教えてくれたのです。集英社の方には三編、白水社の方には一編、ジーヴス短編が入っていて、その時ウッドハウスをはじめて読んだわたしは、「これはわたしが好きな作品だ!」と、たちまち恋に落ちたのでした。「もっともっと読みたい」と言うわたしに、もうないんだよ」と、「翻訳自体がもうないんだよ」と夫は言うのです。

 それなら原語で読むしかないかと夫のアメリカ留学中にウッドハウスの本を買っては読み、こういう本を訳せたらいいなあと思っていたのですが、そんなに簡単なことじゃないんだろうなとも思い、その後三人の子供達の妊娠、出産、育児時代を過ごし、末っ子が幼稚園に入ってようやく幾らか時間ができたところで、訳させてもらえないかなあと、夫の知り合いの編集者さんに聞いてもらい、きっとダメだろうなあダメだろうなあと思いながら訳し始め、ギリギリまでやっぱりダメかもしれないと思いながら、一冊めの『比類なきジーヴス』を二〇〇五年に出して、それから毎回これで最後かと思いながら二二冊、ウッドハウス翻訳を出せたので、まあわたしは運がいいのですよ。

 イギリスのウッドハウス友達に「たまきはどうしてウッドハウスを知ったのか」と聞かれてこの話をしたところ、次に会った時には「日本では親の決めた相手と結婚しないといけないから新婚で泣いてばかりだったたまきに夫がウッドハウスを教えてくれたそうだ」というトンチキな美談が広まっていて謝られたことがありました。「石の上にも三年」とか言われながらしてしまった結婚ですが、まあ、わりあい座り心地の良い石だったかと、楽しく暮らしております。

(写真)片づけ数日前の夫の研究室にて