コラム 漢字と花 棣棠・山吹

コラム 漢字と花 棣棠・山吹

 「山振の立ち儀ひたる山清水 酌みに行かめど道の知らなく」万葉集の高市皇子の歌です。山吹は細い枝が撓う程に沢山の黄色の五弁花をつけますが、枝が風に振れる様から「山振」となり、後に転化して「山吹」となったと言われます。

 相模守護扇谷上杉氏の家宰で、江戸城城主の太田静勝軒道灌が源六郎資長と称していた若き頃、通り雨に遭い、近くの農家で蓑を借りようとした。応対した娘は恥ずかしげに山吹の花を渡したが、道灌は理解できずに佇んでいると、近習の侍が醍醐天皇第十八皇子兼明親王の歌で、後拾遺集に収められている「七重八重 花は咲けども山吹の 実の一つだになきぞ悲しき」のことを教えた。つまり娘は、実のを蓑に掛け、家が貧しく蓑が無いためお貸しすることが出来ず悲しいと、暗になげかけたのです。

 道灌は己の無知を恥じ、以後學問の道に励んだという故事がありますが、この話は後世の人が學問奨励のために作った創作です。

 関東を武勇で席捲した太田道灌は幼少の砌、下野国の足利學校で当代随一の教育を受けた學生出身で、俊才の誉れ高き人物でした。また、歌道を通じて、室町幕府八代将軍義政や歌道宗家の権大納言飛鳥井雅親(栄雅)などとも交流がありました。

(山田信彰)

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