第二回 屋代城(屋代) 千曲市『山城』散歩

第二回 屋代城(屋代) 千曲市『山城』散歩

屋代駅のすぐ裏にあり、有明山の裾野にある一重山。15世紀中頃、この地を治めていた屋代氏によって築城された山城である。1970年、開発に伴う土砂採取により森将軍塚古墳の保存運動が巻き起こる。一重山が土砂採取の代替地となり、急きょ、市文化財課が文化財審議会に諮問し、1973年に市の指定文化財に指定された。一部は土砂採掘により崩されてしまったが、当時の石垣や堀切が今も良好に残されている。

 1995年、教育委員会による発掘調査が行われ、「屋代城跡範囲確認調査報告書」が発行されている。堀切は現況よりも1.5mも深く、最大比高差は約15mと圧倒的な防御施設であった。当時、調査に関わった中央大の峰岸純夫教授は「県ないし国の史跡に値する」と1997年1月の信濃毎日新聞に記事を掲載している。

 1584年、無断で海津城(松代城)を脱出し、徳川に内通した屋代秀正を討伐するため、村上国清ら上杉方は屋代秀正の籠もる荒砥城に攻め寄せた。秀正は徳川方の真田昌幸の援軍を期待したが、真田は動かない。上杉景勝が到着する前に、荒砥城を脱した屋代氏は行方をくらました。新たに虚空蔵山城(上田市・坂城町)を占拠し徳川方の前線拠点を確保、それを喜んだ家康は直筆の書状を送っている。上杉方は虚空蔵山城を攻め戦闘が始まった。18回に及ぶ籠城戦の末、虚空蔵山城を守り抜き、この戦いで屋代秀正は首級100余りを得たという。家康は秀正と頻繁に連絡を取り合い信頼を寄せていく。1585年、真田昌幸が徳川を離れ上杉景勝についたことで、敵中に孤立した屋代氏は上杉・真田連合軍に攻められたが、虚空蔵山城を守り抜く。家康は「比類なき働き」と感賞し書状に書き残した。

 屋代秀正の子、忠正は大坂冬の陣で徳川軍として敵将を討ち取り、大阪夏の陣では、旗奉行として二代将軍徳川秀忠に従軍し、首二級を獲る活躍をした。その後も代々徳川家の旗本として明治維新を迎えることとなる。

 1982年、屋代氏の子孫が静岡県にいることがわかり、保管されていた武田信玄、上杉景勝、徳川家康らの書状が発見された。翌年、子孫の屋代氏が当時の更埴市を訪問し古文書が公開され、のちに市へ寄贈された。

 屋代城の山頂からは、北アルプスがきれいに見える。今は木が茂り眺望はないが、姨捨同様に善光寺平が一望できる山城だ。時代に翻弄されながら、ひたすらに生き抜いた屋代一族。一重山「屋代城」。500年前に屋代氏が見た同じ景色が今も残っている。

(参考文献:平成25年発行「信濃屋代一族~屋代越中守秀正~」志村平治著、歴史研究会出版局)