坂城町 『山城』散歩 第六回 虚空蔵山城

坂城町 『山城』散歩 第六回 虚空蔵山城

無限の知恵と慈悲を秘めた仏といわれる虚空蔵尊を山名とした虚空蔵山。虚空とは宇宙を意味する。坂城町と上田市の境界にあり、西端には「岩鼻」と呼ばれる大岩壁がある。1542年ころ武田氏の侵攻に備え村上氏が築いたとされる。その村上氏を親子2代に渡って裏切ったとされる屋代氏。上杉・村上勢の激しい攻撃に耐え3~4年間も籠城したという(「屋代秀正覚書」)。

 1584年、上杉景勝に反旗を翻し徳川家康につくことを決意した屋代秀正は松代城を勝手に抜け出し謀反を起こす。最終的に虚空蔵山城を占拠し徳川方の前線拠点を確保した。これを家康はことのほか喜んだ。この頃、家康は豊臣秀吉と小牧長久手で戦っていたが、虚空蔵山方面のことは気にかけていて、盛んに秀正と連絡をとっていた。上杉景勝は虚空蔵山城に攻め寄せたが、秀正は弓と鉄砲で防いだという。攻防は18度に及んだ。激しい抵抗に上杉勢は虚空蔵山城の奪回をあきらめたという。

 1585年、真田昌幸(幸村の父)は徳川氏を離れ、上杉景勝についた。昌幸が敵方になったことで、秀正は上杉・真田の敵中に孤立してしまう。同年、徳川は真田の上田城を攻めるが惨敗する。この時、屋代氏も加勢した。上杉・真田連合軍は目障りな秀正が籠る虚空蔵山城を襲ったが、秀正はこれを撃退したという。徳川勢は上田城を落とすことが出来ずに撤退、虚空蔵山を守備することが難しくなった秀正はのちに小諸城に移った。

 登ってみると、急な岩山で真田ですら落とせなかった城であることがよく理解できる。この険しい山に3~4年も籠城したというのだから、屋代氏を陰で支える衆もいたのであろう。屋代城のある一重山からは峰続きでもある。現在は「太郎山山系を楽しくつくる会」が整備を行っており、山頂からは上田城が眼下に見え、塩田平、上山田まで一望できる絶景が広がる。武田・村上に始まり、徳川、真田、上杉と複雑に絡み合う勢力争いの渦中にあった山城である。

<参考文献>「信濃屋代一族~屋代越中守秀正」志村平治著、歴研、2013年