黒百合 くろゆり コラム 漢字と花 

黒百合 くろゆり コラム 漢字と花 

 黒百合は恋の花 愛する人に捧げれば

 二人はいつかは結びつく あああ…あああ

 この花ニシパにあげよか

 あたしはニシパが大好きさ

 アイヌの恋の伝説、想いを込めた黒百合を飾って置き、愛する人がその花に触れると恋が叶うという。終戦後のラジオ番組「君の名は」の中で織井茂子が歌った「黒百合の歌」は、この伝説に基づいて菊田一夫が作詞したのです(作曲は古関裕而)。

 黒百合は越中{富山県)領主佐々成政に纏わる「呪いの花」としての話が、江戸時代に書かれた絵本太閤記(寛政九年刊行・挿し絵は石田玉山担当)に脚色し面白く書きたてられている。

 天正十二年成政が羽柴秀吉打倒の為富山城を出立、冬の立山を越えて浜松城に徳川家康を訪ねる。その留守中愛妾早百合姫と成政の近習との間に不義密通の噂が流布されました。

 怒り狂った成政は早百合姫の一族を討伐。早百合姫を神通川の磯部の堤に聳え立つ一本の榎に逆さ吊りにして斬刑に処した。

 早百合姫は身の潔白を訴え、死に際に「この恨み、立山に黒百合が咲いたら佐々家は滅亡するであろう」と呪って息絶えたという。

 この話は実話ではなく善政を施した成政に対し、後の越中領主前田家の関係者が暴虐の主君に仕立てあげるための作り話というのが実相です。

 佐々成政は世に名高い織田信長の勇将の一人であった。信長の馬廻りから黒母衣衆の筆頭となり、天正十年に越中一国七十三万石の大身となる。信長の死後秀吉に反抗、討伐を受け(富山の役)一命を助けられるも領地没収。

 秀吉のお伽衆として仕え、九州征伐の功により肥後一国五十四万石を与えられる。秀吉は「肥後の国人衆は煩いので、三年間は検地せず融和策を貫くように」と成政に申し渡した。

 肥後に赴任した成政は、自らの蔵入地(直轄領)が無い為家臣達に知行を割り振れず、密かに検地に着手。これに反発した隈部親安ら国人衆は反乱を起こした。(肥後国人一揆 天正十五年八月)

 大規模な一揆に発展したため、成政は対処できなくなり、これを聞いた秀吉は、北野大茶会を一日で中止し、九州諸大名に出兵を命じ鎮圧。降伏してきた国人衆を斬首刑に処し、喧嘩両成敗の掟から成政に切腹を命じ、佐々家は改易となった。

 この時の検使役が、後に隈本城改め熊本城主となる加藤清正でした。(山田信彰)

 秀吉のお伽衆として仕え、九州征伐の功により肥後一国五十四石を与えられる。

 この時の検使役が、後に隈本城改め熊本城主となる加藤清正であった。

(山田信彰)