文豪縁の宿(後編)文豪 志賀直哉が見た風景 珠玉の小品『豊年蟲』をあるく 笹屋ホテル 豊年虫

笹屋ホテル 豊年虫

 文豪縁の宿(後編)文豪 志賀直哉が見た風景 珠玉の小品『豊年蟲』をあるく

文豪は知っていたのか■

 上田の古城跡に思いがけず監獄を見た主人公「私」は、次に「曲輪」を目指します。「曲輪」は土塁や石垣などで囲った城郭の区画ですが、転じて遊郭も「廓」と呼ばれました。「私」が見物したかったのは後者でした。

―車夫は畑道を山の方へ急いだ。(中略)灯のいまだ點らない曲輪は淋しいよりむしろ陰氣だった。(中略)古い家は屋根が低く間口が廣く、どっしりとしてゐた。―

 実はこの建物こそ払い下げられて移築された上田城の櫓だったと考えられます。「廓」のつもりで城の「曲輪」を眺めていたことを、果たして文豪は知っていたかどうか、作品からは知るよしもありません。

田舎蕎麦に舌鼓

―蕎麥は黑く太く、それが強く縒った繩のやうにねぢれてゐた。香が高く、味も實にうまかった。―

 車夫の案内で訪れた町なかの蕎麦屋で、「私」は田舎風の蕎麦を堪能し、「本統の蕎麦」と絶賛します。実在の店の話か、記憶に基づく創作か、思わず引き込まれる幻の蕎麦のエピソード。食いしん坊で知られた文豪の興味深い“食レポ”です。

初めて見る豊年虫

 上田停車場に戻った「私」は、駅舎の内外を「風の日の雪」のように飛び回る大量のカゲロウを目撃します。

―「この邊で豊年蟲といつて、これの多い年は作がいいと喜ばれます」梶棒を下した車夫は汗を拭きながら説明した。―

 初めての光景に「私」は興を覚えます。汽車を降り、戸倉停車場で乗り換えた乗合バスで、常連客の他愛ない会話が止むきっかけもまた豊年虫でした。大正橋に立つ電柱ごとに、灯りの周りを渦巻いて飛ぶ無数の豊年虫。

―誰もゐない暗い夜、此所を先途と夢中に渦巻く蟲の群を眺めるのは一種不思議な感じがした。―

 先途は運命(生死)の分かれ目。虫の姿に独特の感慨を抱いた文豪は滞在中にこの小品を手がけ、約2年後に発表。その5年後に完成した笹屋ホテル別館は、後に「豊年虫」と命名されました。

※引用部分出典・志賀直哉『豊年蟲』(岩波書店刊 志賀直哉全集より)

 戸倉温泉の笹屋ホテル様から国登録有形文化財「豊年虫」(ほうねんむし)に関するエッセイのご紹介を頂きましたので掲載します

写真(上)

上田城東虎口櫓門

写真(中)笹屋ホテル別館

豊年虫(昭和7年設計)

写真(下)

カゲロウの成虫

※テキストは笹屋ホテル

 冊子「Sasaya」より