戸倉上山田温泉と大正ロマン「上山田温泉物語」  第2回

戸倉上山田温泉と大正ロマン「上山田温泉物語」  第2回

信越線の全通すなわち戸倉温泉開湯から19年後、上山田温泉の開湯から9年後の明治45年(1912)2月11日、地元の要望による請願駅として戸倉駅が開設された。

 2年後の大正3年(1914)に大正橋が大正橋(株)により有料橋として開設された。これにより、上野から戸倉駅まで鉄道、そしてバスで大正橋を渡り温泉街へのルートができた。

 大正8年(1919)に、かめ乃湯第2号浴室が現在の「水と緑と潤いのある公園」交差点付近に完成し、上山田温泉本通りとその両側に上山田温泉(株)からの貸地に旅館の誘致がされた。その後1921~1923年にかけて13件の旅館に内湯が設置され、温泉街が整備されてきた。

 温泉街にはあちこちから旅館投資・経営に乗り出す人も増え、上田館、ねづみや旅館、佐久屋、有田屋旅館などの館名に出身地をうかがえる旅館名もあった。

 大正11年(1922)堤防の完成とともに大正橋は県に移管され無料橋となった。

 大正デモクラシーとは1910年代から1920年代にかけて起きた様々な、社会・文化・政治の活動の自由な運動、風潮、思潮を総称するものだそうであるが、この頃、多くの来湯客や文人墨客が戸倉上山田温泉を訪れることになった。

 志賀直哉の「豊年蟲」は昭和3年(1928)に週刊朝日に発表された。また大正ロマンを代表する竹久夢二は多くの作品を当地に残した。(坂井銘醸・酒造コレクション)

 昭和3年(1928)にアメリカでは金融恐慌が発生した。内湯旅館の料金が払えない旅館も出てきて上山田温泉(株)は料金を下げたり減免したりした。

 一方では旅館も娯楽施設の卓球場やビリヤード、ダンスホール、ベビーゴルフ場を設置し、浴槽を木製からタイル張りにするなど工夫をした。

「信州更級郡上山田温泉全景眞図」大正10年11月5日上山田温泉(株)発行