おじょこな800字小説 第四十二回「はじまりの水」
「中学校の水道の水を飲みに行こうぜ」
突然、宮本からこんなラインが届いた。奇妙なラインだとは思ったが、今のアイツの状況を考えると断る気にはなれず、俺は「いいぜ(笑)」と返した。
宮本とは中学時代の陸上部の仲間で、同じ長距離の選手だった。平凡な選手で中学までしか続けなかった俺とは違い、宮本は中学時代から県を代表する選手で、大学では箱根駅伝に出場し、その後は実業団で長距離を続けた。
約束通り、母校の水飲み場で落ち合うと、挨拶もそこそこに「じゃあ飲むか」と宮本はさっそく水道の蛇口を捻った。噴水のように真上に飛ぶ水を宮本は口でキャッチした。すると異物でも飲み込んだように首を傾げた。
「なんだか昔ほど美味く感じないな。ここの水が世界一美味いと思ってたのに」
宮本は悲しそうに蛇口を閉めた。
「あれは散々走った後だから美味かったんだよ」と俺は突っ込んだ。当時は練習中に水を飲むことは許されていなかった。だからこそ部活終わりの水は格別だった。
「そっか、そうだよな。じゃあちょっと走ってくるわ」
は? 戸惑う俺に構わず、宮本はすでに校庭に向かって駆け出していた。一瞬俺も付き合った方がいいのかなと思ったがすぐに諦めた。梅雨入り前だが今日は日差しも強いし、三十半ばになり腹が出てきた俺がプロに付き合えるわけがない。俺は水飲み場から校庭の周りを走る宮本を見守った。
あの頃よりもずっとスピードは速い。でも、大きく手を振るフォームはそのままだった。だけどよく見ると表情が曇っているように見えた。それは、校庭を一周するごと表情に現れた。膝の古傷が痛むのかもしれない。
苦しそうに走っている姿を見ていると、一週間前に宮本が投稿したSNSを思い出した。
それは、「現役引退を決意しました」という文面だった。十年以上現役を続けたとは思えないほど簡素な内容で、いいねの数も少なく、それが無性に寂しい気持ちにさせた。
厳しい世界だ。宮本も箱根のスターだったが、そういう選手は毎年生まれる。宮本に憧れていたかつての少年たちはライバルになり、宮本を引退に追い込んだ。
「宮本、もういいよ。よく頑張ったよ」
右膝を庇いながら走り続ける宮本に、俺は小さな声でつぶやいた。思えば、まだ宮本に「お疲れ様」と伝えていなかった。
三十分ほどしたころ、宮本が水飲み場に帰ってきた。グレーだったTシャツは汗で濡れて真っ黒になっていた。宮本は一目散に水道の蛇口を捻り水流に吸い付いた。
無我夢中で水を飲み続けた宮本だったが、水を止めると無言で俯いた。そして、しばらく考え込むと顔を上げた。
「俺、この水があったからここまで頑張ってこられたんだよな」
そう呟くと、もう一度じっくり味わうように水を口に含んだ。
「うん、やっぱりここの水が世界一だ」
清々しい顔で宮本は笑った。
「なあ、これからビール飲みに行かない?」
俺は唐突に誘った。
「おおっ、いいねえ。走った後のビールも世界一だ。そうと決まれば即行こうぜ」
せっかちな宮本は俺に背を向け、校門に歩き出そうとしていた。
俺はその背中に「お疲れ様」と声を掛けた。
しかし、宮本はそれに気づかずに、「こんな時間に飲める店あるかなあ」と陽気に前を見て歩きはじめていた。
著者紹介 塚田浩司/柏屋当主。屋代出身。