さらはにズム ちくま論説
▼千曲市2025年度の一般会計当初予算案が、先月新聞に発表された同じ頃、千曲市議会活動報告誌が、ある会派より届いた。2024年度、会派4人それぞれの議員活動がカラーで、わかりやすく盛沢山だ。その中で一件気になる記事が目にとまった。
▼「旧更埴市庁舎敷地に在った石碑」というタイトルのコラムだ。清泉女学院大学農学部開校建設を控え、更地になった更埴庁舎の敷地内にあった、初代更埴市長・北村匡登の顕彰碑、更埴市・市民憲章の石碑、更埴市政の礎の3基の石碑が解体処分されていたという記事。
▼初代更埴市長の北村匡登は明治22年(1889~1985)屋代町生まれ。今年で没後40年、旧制長野中学卒、八十二銀行、屋代町会議員、屋代町長を歴任し、1959年初代更埴市長に就任新市発足当初は分市運動が激しくあり粘り強く指導力を発揮して、更埴市の基礎を固めた。
▼更埴市・市民憲章碑には次のフレーズが刻まれていた。「月の名勝おばすて山、一目十万本のあんずの里など歴史と自然に恵まれた郷土を愛し、明るく豊かなまちづくりをめざしてわたくしたちは次のことを誓います。一、きれいな水と清い空、みどりあふれるまちをつくります。一、思いやりを深め、ゆたかな心の結び合うまちをつくります。一、からだをきたえ、たくましく楽しく働くまちをつくります。市制二十周年記念・昭和五十四年六月二十六日制定」
▼市政の礎の石碑は当時の国務大臣愛知揆一の揮毫で「昭和三十三年六月一日 埴科郡屋代町、更級郡稲荷山町八幡町の三町一ケ村を合併して市政を施し更埴市として発足」とあった。
▼以上のような、当時の街づくりの証をその時その時の先人たちが後世に伝承しようと、必死に人事を尽くした結晶ではないか。このような何気ない気付きこそが、今の社会に欠落しているのではないだろうか!