ウッドハウスの世界 森村たまき(20)
森村たまき
(20)
こんにちは、イギリス生まれのユーモア作家、P・G・ウッドハウスの翻訳をしております、森村たまきです。今回はウッドハウスが生み出した最強執事ジーヴスに名前を提供したクリケット選手、パーシー・ジーヴス(一八八八‐一九一六)のことをお話ししましょう。
ウッドハウスがジーヴスを登場させたのは一九一五年、アメリカの小説誌『サタデー・イヴニング・ポスト』誌に掲載された「ガッシー救出作戦」が最初です。その二年前、イギリスに帰国中だったウッドハウスは当時チェルトナムに住んでいた両親宅に滞在し、その地で開催中だったグロスターシャー対ウォリックシャーの試合を観戦した際にパーシー・ジーヴスを見つけ、強烈な印象を受けたのです。後年ジーヴスの名前はパーシー・ジーヴスからとったのかとの質問に答えた手紙に、ウッドハウスは「……ジーヴス選手の投球に私はいたく感銘を受けたにちがいありません。一九一六年にニューヨークで、ジーヴスとバーティーの物語をこれから始めようという時、彼のことを思い出したのです。その名こそ、まさに私が欲していた名前でした。」と記しています。 パーシー・ジーヴスは一八八八年三月五日にヨークシャーの繊維工業町アールズイートンで鉄道員の父親の許、男子三人兄弟の末っ子に生まれました。パブリックスクールでクリケットを嗜んだというような上流階級の生まれではなく、地元の町チームから入団試験を受けてプロ選手になった人です。ウォリックシャー・クラブでは投手、打者、野手、すべてをこなすオールラウンダーで、「非の打ち所のない身なりと、シミひとつないフランネル、きちんとアイロンの当たったシャツ」で名高い「選手中で最も紳士らしい選手」であったといわれます。
「一九一四年最高のオールラウンダー」と評され、いずれイングランドチームのボウラーとして活躍を嘱望されていたジーヴス選手は、わずか二シーズン活躍しただけで第一次大戦に志願して従軍し、一九一六年七月二二日、膠着した塹壕戦で知られるフランスのソンムにて、二八歳の若さで戦死したのです。 ジーヴス選手の生まれ故郷のグールの町には、彼とウッドハウスを讃える記念銘板があります。「ソンムにて戦死。P・G・ウッドハウスの「ジーヴス」の源となった。」と記されたこの銘板は、ジーヴスの戦死からちょうど百年経った二〇一六年に除幕されました。
※写真はパーシー・ジーヴスの伝記を眺める森村家の愛猫バーティー