上山田温泉株式会社 千曲市 会員企業紹介 vol・⑦
(一社)ちくま未来戦略研究機構の会員企業の特集コーナー。第7回は昨年開湯120周年を迎えた千曲市上山田温泉の温泉供給を百年余りにわたり担い続けてきた「上山田温泉株式会社」です。 (執筆本紙特任記者 中澤幸彦)
「創業の原点に立ちかえる」上山田温泉株式会社/若林正樹社長 地域開発の先駆者の遺伝子受け継ぐ
上山田温泉株式会社を知るには、その生い立ちと発展の歴史を振り返るのが一番だ。その歴史を語ってもらったのが、現在の社長を務める若林正樹さん(68)。上山田町の出身。戸倉上山田中学校から県立長野高校に進学。早稲田大学卒業後、家業の老舗旅館上山田ホテルの経営に携わり社長を務める。湯元として戸倉上山田温泉の旅館やホテルに湯を供給する上山田温泉株式会社のトップになった。
「創業者の温泉開業の原点に立ちかえり、開発の精神で進みたい」と若林社長は創業者のDNA(遺伝子)を引き継いでいく気構えを明らかにした。
若林社長が案内してくれた同社の敷地内にある「戸倉上山田温泉 温泉資料館」には、温泉採掘にかかわる貴重な資料が展示されている。その内容を紹介するパンフレットには、開湯までの歴史が以下のようにまとめられている。
☆歴史を知る
明治26年(1893)4月、当時の埴科郡戸倉町の資産家・坂井量之助が、河原に掘った温泉井戸から48・9度の温泉(戸倉温泉)をくみ上げた。これが「戸倉温泉」の仮開湯となった。それより前の明治元年(慶応4年)に、千曲川の川辺で若林才兵衛、小林平四郎が温湯を発見した。北国街道沿いの上戸倉宿で旅籠を経営していた高野直次郎が同じく温湯を発見し、明治8年(1875)に長野県庁に温泉掘削の願いを申請した。しかし、県は許可をしなかった。その理由は「千曲川が洪水のたびに、川の浅いところの流れである川瀬が変わってしまい、湯の出るところが不安定だ」としたという。その後、何人も温泉を開こうとしたが失敗。洪水の多い千曲川の河原に開湯するのは、難事業だった。かつては河原だった明治8年の絵図には字下河原と書かれた場所に、明治36年上山田温泉第一号浴室「かめ乃湯」が建設された。
上山田温泉株式会社の設立は明治40年(1907)。株式は50円株で、12人が株主となり、400株で発足した。その前に、「温泉創設委員」8人が、大通りを開き、間口5間(1間は六尺、約1・8m)、奥行き10間の「敷地割」をして、旅館経営の希望者に貸し出した。8人の創設委員は、浴場経営に資金と労力を集中させて、旅館経営はしなかったが経営は厳しく、資金難になった。委員は更級、埴科、上水内、東筑摩、小県の五郡の地域の人々に義捐金を募り、合計3000円(明治45年の1円は令和3年の約2570円の価値、当時の3000円は約800万円の価値)の寄付があったという。
温泉に入り、千曲川で川遊びをする「楽しみ」は「保養」としても素晴らしい。今でいう「リゾートでリフレッシュ」である。高崎から軽井沢間の鉄道が延伸して長野駅まで開業し、戸倉駅もできて国鉄の信越線も整備されてきた。乗合い自動車も走り、交通の便もよくなり、大正3年(1914)には「大正橋」(当時は有料)も完成した。しかし、難問が常にあった。特に温泉場は毎年洪水に襲われた。明治35年(1902)に、戸倉温泉は大西地籍の堤防内に移転して、河原の源泉はレンガ積みで囲った。しかし、また温泉を送る送湯管が洪水で流され、ブリキ管で復旧したが、温度が下がったり、湯が漏れたりした。結局、大正5年(1916)に元の向島に再度移転して、再生を図った。
一方で、上山田温泉場は上山田温泉株式会社が大正4年に私費(当時の約470円、大正時代の1円は今の約4000円)で自営の「石積み堤防」を築いた。
このころの宿泊は主に自炊(米を持参して自分で賄う)だったが、宿賄い、客献立を聞く「お伺い」などの食事の仕方があったという。大正10年(1921)には戸倉温泉笹屋と国楽館が内湯を設置した。上山田温泉も、内湯用源泉掘削に成功して、翌11年に11の旅館に内湯を設置した。
この内湯を供給する料金や土地の賃料が、株式会社の主な収益となってきた。今は15の源泉がある。
世情も比較的平穏だった大正期には、料理屋、芸妓置屋、カフェーなども増えて、長野からの乗合自動車もあり、にぎわった。
☆「艱難辛苦」を乗り越えて
製糸・蚕種業の景気が変動して、「繭価格」が乱高下して、農村の経営は不安定な経済となり、入浴客も減り、旅館経営は厳しかった。特に昭和3年(1928)から不穏となり、4年(1929)10月24日、米国ニューヨークのウォール街の株価が大暴落、世界大恐慌が起きた。この金融大恐慌により翌5年から、温泉場も不景気の波が直撃し、入浴客も減り、内湯温泉の料金が払えない旅館もあったという。会社は、内湯の料金を下げたり減免して、なんとか乗り切った。
それから、第一次世界大戦、太平洋戦争を経て戦後。1950年から4年余りの朝鮮戦争の特需を契機に、経済も回復。昭和39年、1964年の東京オリンピックを踏まえて、高度経済成長期に入り、それを象徴する昭和45年(1970)には大阪万博が開催され、各国のパビリオンや日本の大手企業のパピリオンが並んだ。戸倉上山田温泉も各地からの観光客や会社の社員旅行を中心ににぎわった。芸妓も多いときは、300人を超えたという、その後、時代は変わったが、今や外国人観光客が世界各地から日本を訪れ、その数は直近で月間300万人を超える。こうしたインバウンド需要をいかに取り込むか、さらに国内からの観光客に戸倉上山田が注目されるかが、今後は一層のカギとなろう。
上山田温泉株式会社は平成14年(2002)に創立100周年にあたり、記念事業として①上山田温泉創設委員の功績を讃えるための「開湯百年記念碑」を「水と緑と潤いのある公園」に建立②「かめ乃湯」の改築移転③「上山田温泉株式会社創立百周年記念誌 いのちあたたまる温泉」の発行④「温泉資料館」の開設。以上の四事業を計画した。温泉資料館開設の目的は「地域の子供たちが、戸倉・上山田の歴史を学ぶ場を設ける」にある。展示資料は「すべて購入しない」ことを原則に、会社が大切に保管してきた温泉の掘削の機械、ボーリングコア、スケール、破損した給湯機材、書類資料などが展示されている。併せて、温泉関係者や地域の方々から寄贈された歴史を語る資料が並ぶ。
※本紙では6月号以降、上山田温泉株式会社社長の若林正樹さん執筆の連載「上山田温泉物語」を予定しています。
(写真上)上山田温泉株式会社/(中)上山田温泉資料館で説明する若林正樹社長/(下)源泉掘削の櫓
『五木ひろし』の歌う名曲「千曲川」作詞家・山口洋子さん 執筆室の再現を始め、レコード大賞トロフィー、ゴールドシスクを始め、数々の活動の足跡を展示しています
千曲市上山田温泉1-27-11(かめ乃湯となり)
残された資料を収集展示し、121年の温泉発展の歴史を展示しております。一面の河原だった場所がこのような温泉街が発展してきた歴史が展示されています。
千曲市上山田温泉4-1-8
上山田温泉株式会社は、地域のデベロッパーとして、また源泉の安定供給を行うことにより戸倉上山田温泉の発展に寄与します。明治36年(1903年)より121年にわたり地域の温泉として営業をしております。※千曲市上山田温泉1-28-2*かめ乃湯は6月中旬より7月上旬にかけ改装工事のため休業いたします。告示いたします。