千曲市 会員企業紹介vol・④ 森川産業株式会社

千曲市 会員企業紹介vol・④ 森川産業株式会社

 (一社)ちくま未来戦略研究機構の会員企業を紹介する特集コーナー。

第4回は精密鋳造・自動車部品・産業機器部品の精密鋳造及び機械加工のメーカー「森川産業株式会社」(千曲市鋳物師屋)です。

 1945年に創業、2023年に78年目を迎えた。

 「技術をひたすら追いかける」森川潤一社長は、創業当時の働く人たちの思いはこの言葉に集約されていたという。

 潤一社長は4代目となる。創業者は潤一氏の祖父・寿(ひさし)さん。寿氏は九州・博多の出身。若き鋳造技術者として日本が太平洋戦争に突き進むなか、軍需産業の一翼を担うなど時代の流れに翻弄されながらも技術を追求していった。

 森川産業の原点は寿氏ら3人の若き鋳造技術者が昭和18年に設立した信濃航空工業にある。

 戦火が日増しに激しくなるなか、本土空襲が本格化するのに備えて軍需工場の「疎開」が始まった。昭和18年、石川島航空工業の下請け工場であった杉林金属(東京都大田区)が当時の埴科郡鋳物師屋に疎開した。そこの繊維工場を経営していた会社に従業員、生産設備を譲渡する形で信濃航空工業が設立された。同年2月に工場長になった寿氏は技術者としての「盟友」であった松本秋一郎氏に入社を要請し、のちに渡辺弥太郎氏を養成工の指導役として招聘した。ここに森川産業の創業の「3人組」がそろった。戦況が悪化していくなか、信濃航空の受注品は、ゼロ戦の先端部をはじめとするアルミ部品や軸受等重要な保安部品が増えた。新型エンジン部品の依頼もあったという。

 鋳造とは、鉄などの金属を溶かして鋳型に流しこんでその形の製品をつくること。鋳物の歴史は古く紀元前3000年のメソポタミア文明に始まり、日本では1世紀に入り、銅鐸、銅鏡、刀剣などがつくられた。奈良時代においては仏教の伝来とともに、仏像や鐘が盛んに鋳造された。江戸時代末期には幕府が金属を溶かす炉(キューボラ)を建設し、その後の鋳物産業は明治政府が進める富国強兵・近代化政策とともに発展していった。

 戦争が終わった後、間もなく会社を起業した。現住所の千曲市鋳物師屋(いもじや)は、約680年前の室町時代に鋳物師(いものし)が住んでいたとされ、森川産業にとっては縁起が良い創業地となった。

 戦後しばらくは、アルミ製の鍋や釜を作っていたが、1950年に本田技研工業から二輪(バイク)部品を受注したことが大きな転機となった。本田技研が四輪に業態を拡大するにつれて、追随した森川産業の技術力は磨かれた。1985年には、「消失模型鋳造」と呼ばれる製法で自動車用ベアリングキャップの量産が開始された。技術力の進化とともに、ホンダのF1の部品製造にも取り組んだ。それらの様々な挑戦が技術革新に寄与する中で、ホンダはじめ数多くの自動車メーカーにその技術を高く評価されてきた。

『変革期に対応する事』

 2015年に起きたフォルクスワーゲン社の排気ガス不正問題を一つの契機として、ヨーロッパで脱ディーゼルエンジンの流れが加速し、2017年には、英・仏などでガソリン車・ディーゼル車の新車販売の禁止が発表されることとなった。この動きに、中国が追随したことに加え、世界的に関心の高まった脱炭素の動きが加わり、状況はさらに加速している。自動運転や電動化シフトの動きが急速に進む自動車業界は今や100年に一度の大変革期に直面している。森川産業も例外ではない。

 こうした時代の変遷にあっても、森川潤一社長は「創業期のメンバーは戦後の敗戦の中で、生きることに対しても必死だったが、新たな製品を作る喜びや楽しさがあった。世の中にない新しいものを創り出すということが当社の技術の原点になっている。変化の大きい厳しい時代だが『変わること』を楽しみ、『ものづくりの愉しさ』を忘れずにいきたい」と笑顔で語った。

森川産業の経営理念

一、会社は社員と共に成長し、社員全員が創る喜び、働く喜びを実感できる企業を目指します。

二、社員同士が人格を尊重し合い、果敢な挑戦心と創造力を大切にし、チームとしての活力を最大限発揮できる職場環境づくりに取り組みます。

三、顧客と共に高い製品品質を追求し、社員、設備、環境に優しいものづくり力を磨き続けることで、地域社会の発展と循環社会の実現に貢献します。

(写真上)森川産業株式会社本社社屋 (写真中)右2枚・製品事例

 左・森川潤一代表取締役社長