戦後75年記憶を今に伝える千曲市内の石碑

2020年は終戦から75年の節目の年にあたる。千曲市内にも戦時の労苦を今日に伝える記念碑が建立されている。 上山田温泉では戦時中、東京から集団疎開した多くの学童たちを受け入れていた。

日本初の肢体不自由児のための学校・都立光明国民学校の生徒約60人は、空襲が激化してきた昭和20年5月に上山田に到着した。親元を離れた子供たちを迎え入れたのは上山田ホテルで、子供らはここで生活することとなる。疎開直後に東京の校舎は空襲で焼失。帰る場所を失った子供らは終戦後もこの地にとどまり、昭和24年5月にようやく親元に戻ることができた。

当時、地元の住民らは献身的に子供たちを守り、県内各地からは農作物が届けられたという。戦後、上山田の人々への感謝の気持ちを込めて「肢体不自由児学童疎開の地」の記念碑がホテル敷地内に建立された。

「信濃路はるか一肢体不自由児学童疎開の地-」の石碑(千曲市上山田温泉)

 左の写真は市内新田の都市計画道路一千曲線沿いにある「柿崎中隊対店碑」。現在の中国東北部・旧
満州の町「対店」に入植した満蒙開拓義勇軍の石碑である。義勇軍では16歳から19歳までの青年を
募集し、更級・埴科の二郡からも昭和13年の第一次隊を皮切りに多くの若者たちが参加した。募集者
は年々低年齢化し、長野・上小・更埴の二市七郡からなる昭和18年の第六次柿崎中隊では、尋常小学
校高等科を出たばかりの1 4 ・ 1 5歳の少年232名が故郷を離れ、海を渡っていった。だが、極寒の
地での農作業や軍事教練は過酷を極め、終戦間際のソ連軍侵攻と抑留で多くの若者が命を落とすことに
なる。更埴地方の義勇軍参加者で戦後無事に帰還できたのは7割程度だったと言われている。

「柿崎中隊対店碑」
 (千曲市新田)