北国街道 歴史こぼれ話(第6回)明治天皇巡幸その四(松代街道)
下戸倉宿から一里半北上すると次の宿場、矢代宿(屋代)へと到着する。矢代宿には大名や公家のみ宿泊が許される本陣が置かれていた。元々は矢代宿の本陣から東に折れて松代へと進む道が北国街道であったが、慶長16年(1611)に松平忠輝の発した伝馬条目により、千曲川を渡り丹波島、善光寺へと至るルートに変更され、松代に向かう道は北国脇街道(松代街道)となった。松代街道は松代藩城下を通過し、牟礼宿で再び北国街道と合流する。
明治天皇巡幸の10年前、慶応4年(1868)4月に旧幕府軍の残党「衝蜂隊」と飯山城下で交戦を始めていた松代藩から応援を要請された官軍の部隊が北国街道を進軍。松代藩は矢代宿まで官軍の軍監を出迎えた。この軍監こそ土佐藩士・岩村精一郎であった。その後、岩村は長岡藩家老・河井継之助による交渉の申し出を一蹴し、北越戦争の原因を作る。松代藩は越後に進み苛烈を極めた北越戦争に従軍することとなる。
ちなみに矢代宿の松代街道との分岐点には明治初期に使われていた屋代学校があり、建物が現存する。

矢代宿・北国街道と松代街道の分岐点にある案内板(左) 脇本陣跡(右)
