おじょこな800字小説 作・塚田浩司 第三十九回「アンとわたし」

おじょこな800字小説 作・塚田浩司 第三十九回「アンとわたし」

 私のふるさとに夫と一緒にUターンした。大学進学のときに地元を離れて以来だからこの町に住むのは五十年ぶりだ。屋代駅前通りもすっかり変わってしまった。だけど、西沢書店は場所こそ少し変わったが営業していた。近隣には他にも書店はある。それなのに私の足は自然と西沢書店に向っていた。しかし、店の前まで来て足が竦んだ。

 西沢書店には青春の思い出がある。あれは高校二年の頃だった。当時私にはお付き合いしていた男性がいた。一つ年上の高木先輩だ。彼はテニス部の練習に明け暮れていたから肌は黒く体格もがっしりとした人だった。そんな体育会系の高木先輩は意外なことに読書家で、しかも男子には珍しく赤毛のアンが好きだった。赤毛のアンは私も大好きで何度も繰り返し読んだほどだった。彼ともその話題で相当に盛り上がった。そんなある日、どちらからともなく「シリーズ化されているんだし続編も読もうよ」という話になった。私も彼も赤毛のアンは読んでいたけど続編は読んでいなかったのだ。

 さっそく私たちは赤毛のアンの二巻にあたる「アンの青春」を購入した。そこですっかり虜になった私たちはアンの世界にのめりこんだ。読み終わっては稲荷神社のベンチで感想を語り合う。些細な時間だったけどそれがとても幸せな時間だった。

 当時はもちろんネットなどはない。西沢書店で取り寄せてもらい購入するのが常だった。アンシリーズを読破していく私達はとうとう第六巻まで読み進めた。そこでいつも通り、私は七巻にあたる「虹の谷のアン」を注文した。書店に届いたら私の家に電話連絡が来るのだが、その電話が待ち遠しかった。

 アンを注文した五日後の日曜日。私は先輩から呼び出された。場所はいつものの稲荷神社のベンチだ。私が到着してすぐに彼はやってきた。

「あのね、虹の谷のアン注文したよ」

 彼に会うなり私は言った。しかし彼は「ああ」としか言わない。表情もいつもと違って険しい。喜んでくれると思ったのに。私は少しガッカリした。

「あのさ、別れたいんだ」

 彼から突然の別れを切り出された。ショックのあまり、そこからの記憶がほとんどない。多分彼は色々と理由を説明していたと思うけど私の頭に入ってこなかった。

 失意のままとぼとぼ帰宅すると、玄関で「書店から電話あったよ。本が届いたって」と母親が私に声を掛けてきた。母はなにも悪くない。だけど苛立った私は返事をしないで部屋に籠った。

 そうか届いたのか。あんなに待ち遠しかったのにもうそれどころではない。むしろアンなんて読みたくもない。結局私は取り寄せてもらったにもかかわらず、本を受け取りに行くことはなかった。それ以来気まずくなって西沢書店には一度も足を運んでいないしアンシリーズも読んでいない。

 五十年ぶりに店に足を踏み入れた。自動ドアが開くと、すぐ横のレジに男性が腰かけており「いらっしゃい」と声を掛けてきた。おそらく店主だろう。入ったものの特に欲しい本などなかった私は、適当に小説コーナーを見渡した。すると奇跡のように「虹の谷のアン」が目に飛び込んできた。?でしょ。私はアンを手に取った。もしかしてあの日私が取り寄せたものが売れずに残っているでは。一瞬そう思ったけど五十年が経っているのだからそんなはずはない。だけど感慨深かった。手に取ったらもっと切ない気持ちになると思った。それなのにどこか温かい。

 高校生のころは彼との恋が人生のすべてだと思っていた。だから失恋した時は絶望的だった。それでも高校を卒業し、東京の大学を出て、その後、職場で出会った夫と三年付き合ってから結婚した。後に子供が生まれ、今は孫までいる。そう思うとアンにまつわる苦い思い出も悪いものでもないと思えてきた。

 私は五十年ぶりにアンをレジに置いた。おそらく私はこの店主とは面識がない。それなのにレジを打つ店主を見て「今、私は幸せです」と伝えたくなった。

著者紹介

塚田浩司/柏屋当主。屋代出身。  ※ご感想をお寄せください