ぶらり歴史旅 最終回  佐野の辺り (佐野にまつわる伝承)

ぶらり歴史旅 最終回  佐野の辺り (佐野にまつわる伝承)

 善光寺道を語るとき西方に位置する佐野について説明しないと歴史を守り伝えた先祖に顔向けが出来ませんので伝承も含めて語ります。

 西行法師は永正元年(1118)~文治六年(1190)平安時代から鎌倉時代にかけての武士、僧侶、歌人で名を残した人「ねかわくは 花のしたにて 春しなん そのきさらきのもちつきのころ」『山家集』が選集抄「信州佐野二僧事」に記された場所がこの地佐野であるとも言い伝えられております。上野の国学者 飯塚久敏碑文「西行法師旧蹟の碑」が佐野薬師堂境内に現存しております。佐野山医王院長福寺は仁平元年(1151)開創、薬師如来を本尊とする古刹であります。現在は薬師堂のみ現存しており、西行桜、二僧塚の伝承が今に語られております。

 大田原の草分けの存在であります松林大城守従五位下親延主従九人が京都を退出して落ち付いたのが佐野であり、その後大田原に移り住んだのです。

 更級郡の安養寺は桑原佐野地域にあったのではないかと語られております、安養寺は国から一定の供料を給わり国家の祈願修法を行う国分寺に次ぐ寺院であります。桑原佐野山字寺平地籍に真言宗佐野山真生寺が存在しておりこれが安養寺ではないかと言われております。このあと光明山無量院極楽寺となり、大田原、稲荷山と移転を繰り返し現在の場所に定まったものと思われます。

 木曽義仲の横田河原出兵に際し、麻績方面より横手山を越え(筑摩越え)屯営所として佐野薬師寺が使用され焼亡したとの記録があります。

 また、佐野の地は戦国時代に築かれた佐野山城、龍王城を背後に抱えた戦略的に要衝の地であり、各合戦において重要な役割を果たした場所であります。

 此の地が昔から脚光を浴びた要因は、東山道支道、善光寺道による交通の要所であったことが大きな理由と思われます、さらに近くには佐野不動滝が自然と調和して絶えることなく清流が流れ落ちております。佐野薬師堂へは林道入口から百段を越える石段をのぼり山門をくぐり薬師堂へ行くことをお勧めします、春は桜、秋は彼岸花等草花が迎えてくれます。

 勝手ながら本稿を以って一区切りと致します。一年間有難うございました。

(文・写真/千曲市川西地区振興連絡協議会)

幽谷から流れ落ちる佐野不動滝

咲き誇る桜を映す佐野薬師堂前池

寺平に残る安養寺跡か