千曲市 会員企業紹介 vol・⑥ 千曲中央病院 特定医療法人財団 大西会

千曲市 会員企業紹介 vol・⑥ 千曲中央病院 特定医療法人財団 大西会

 (一社)ちくま未来戦略研究機構の会員企業・団体を特集するコーナー。第6回は千曲市杭瀬下にある、地域の最も頼れる№1かかりつけ病院を目指す「特定医療法人財団大西会 千曲中央病院」です。


 「地域の方に寄り添い、健康で笑顔で暮らせる地域医療に貢献します」。この理念を掲げる千曲中央病院は千曲市杭瀬下にある。そして、病院の方針は次の5つとなっている。

1.地域社会に向け、より良い医療実現のため有益な情報発信に努めます。

2.医師等による丁寧な説明を実践し、患者さんの選択に基づく医療を提供します。

3.患者さんの人格、価値観、プライバシーを尊重し、安全で思いやりのある医療・看護を提供します。

4.質の高い医療・看護の実践のため、職員は日々研修・研鑽に励みます。

5.人々が生涯にわたり健康の歓びを享受できるよう、メディカルフィットネスによる健康管理を始め、保健・医療・福祉の連携を図ります。

 令和6年1月、千曲中央病院は「病院機能評価」を受審した。病院機能評価は、医療の質の改善と向上とあわせて、患者さんと病院職員の安全の確立などを目的として中立的・科学的な第三者機関の「日本医療機能評価機構」によって行われるものである。

 さらに大西禎彦院長は手順や規程などを見直すことは、次世代へのスムーズなバトンタッチにもつながると判断し、今回の受審を決定した。機能評価の結果については今夏になる見込み。これを機会にさらなる地域の住民の皆さまに寄り添った病院を目指していく。

 千曲中央病院の季刊紙「あんずだより」の令和6年元日号で、大西禎彦院長は「昨年から救急科を創設して、脳外科医1名、救急専門医1名の二人体制による救急医療に取り組んでいる。本年4月からは循環器内科の常勤医師2人を増員して、心臓病センターを立ち上げて、循環器医師3名体制で心疾患の検査治療にも力を入れていく」と表明し、まさに理念に沿った方針を打ち出した。

 創業者の大西益太郎氏が埴科郡杭瀬下村(現在の千曲市杭瀬下、今の病院の建物とは別の場所)に個人医院の「大西医院」を開業したのは昭和21(1946)年7月1日。その時から77年がたった。人間でいえば喜寿を迎えたことになる。

 社史「地域と歩んだ五十年 更埴中央病院」によると、大西医院は6床、結核に対応する14床からスタートしたが、7年後の昭和28(1953)年2月9日、個人病院から「医療法人泰山会 大西病院」が開設された。個人経営から法人組織となり、医療業務の拡大の礎ができた。同30年には、増改築によって60床に増床、さらに4年後に70床に。

 益太郎氏は明治35(1902)年屋代町の西横町の竹一郎の長男として生まれた。屋代尋常高等小学校(6年)から県立の旧制長野中学(現在の長野高校)を4年で修了して、旧制松本高校(現在の信大教育学部)に合格。幼少のころから、親切で町から表彰されるほどの孝行息子。優秀だったという。中学時代の親友が、桑原村のオバステ酒造の和田三良さん。三男で長野に住んでおり、益太郎氏はよく話し込んだという。このころ医学の道に進む意志を固めたとされる。旧制松高から東京帝大医学部を受験するも失敗、小県郡東部町の小学校で代用教員をしながら勉強して東北帝大医学部に合格。代用教員時代に、夫人となる加代さんと知り合ったという。このくだりは「地域と歩んだ五十年」に詳しく記載されている。

 東北帝大医学部を卒業して日本郵船に入社。船医としてインド航路などで診療。その後、南洋興産に移り、サイパン島、テニアン島などの島々で、内科から産婦人科、眼科までなんでも診療したという。特にデング熱など熱帯特有の病にも精通していたという。帝大に戻り、肺結核の早期診断、血清学的診断、治療法について徹底的に学び、習得した。昭和14年(1939)8月、中国南京で大西医院を開業、中国の人からも信頼は厚かった。

 終戦後、昭和21(1946)年2月1日深夜、中国からなんとか篠ノ井駅に降りたった益太郎氏。ここから雪道を歩いて屋代西横町の自宅にたどり着いた。しばらく休んで回復すると、近所の人や知り合いらが「調子が悪いから診てくれ」と訪ねてくる。「町のために医院を開こう」と決意した。これが現在の千曲中央病院の原点といえよう。

 その意志は、ご子息の大西雄太郎会長、さらに孫となる大西禎彦理事長・院長に脈々と受け継がれている。

 大西医院は開業して、すぐ杭瀬下小学校、同中学(いずれも現在の埴生小、中学校)、若葉幼稚園の嘱託医となる。その後病床も増えて、昭和28(1953)年12月レントゲンの設置、同30(1955)年10月には外科手術室で県内初の肺手術を施行した。同32年(1957)1月大西長生会発足、完全看護実施が承認。同年8月、草間次郎医師が着任した。

 筆者は4歳のころ、虫垂炎と診断できない町医者のために腹膜炎となり、この草間医師に休日の手術をしてもらった。危なかったが母親の機転で、草間医師の自宅まで抱いていって診てもらったという。この母親も屋代南高の被服科の教師を務めている昭和53年(1978)8月に、当時の更埴中央病院で胃がんの手術をしてもらった。親子二代でお世話になっている「町の頼れる病院」だ。

(写真上)大西益太郎氏像

(写真下)千曲中央病院外観

千曲中央病院ホームページ

トップページ